死に際を思う

丸山歯科医院のHpをご覧の皆様、おはこんばんにちは。
最近、
ご無沙汰しておりました。

先日、

私の父が亡くなりました。
父とはいろんな事がありました。

自分は、大学卒業し、社会に出てしばらくまで、
人から「尊敬する人は?」と聞かれれば、
迷わず「父だ」と答えていました。

言い回しや態度は少しぶっきらぼうでしたが、
威厳と感じていたし、父の知人や仕事の仲間にも、
とても人望があるようでした。
感性も共感できる事が多く、意外と細やかで、
何より、自分を何不自由なく育ててくれました。

父は歯科技工士で、私は歯科医師、
父の望みもあり、一緒に働きました。

一緒に働き出すと、違った面が見えました。
「家族」である事より
「仕事」をしている時、人はより現実的です。
そこには人間性が見えてきます。

当然ですが、
父は完璧な人間ではありませんでした。
もちろん、私もです。
お互いの欠けている所を責め合う事が続きました。

振り返ると、
母が亡くなってから、更に悪かったように思います。
母も私にとって偉大な人でした。
母がいた頃は、
父と私の揉め事も、あくまで仕事をよくしよう
と思う気持ちのあらわれからでした。
母は、真に人に誠実な人でした。
子供の頃は気がつかなかったけれど、
大人になるにつれ、それがわかるようになりました。

父は、
今にして思えば、見栄っ張りな男でした。
またそれをよく見せる感性を持っていました。
正直を言えば、他人には十分に誠実ではない人でした。
が、それを憎まれない愛嬌を持っていました。

私は、
よくも悪くも、本当に父の子供だなと
最近つくづく思っていました。

晩年、
私と父は、
ある確執から、半年以上顔を合わせていませんでした。

そんな折、父は病を患いました。
今年の2月から7月まで闘病し、
後遺症に悩ませれながらも、懸命に生きておりました。

確執の原因は、多くは父にありましたが、
立場上の責任は私にあり、
多くの方に恵まれ、なんとか立ち直りましたが、
当時は、だいぶ父を責めました。
結果、父から多くのものを奪う形になりました。
望んでした事ではないし、
現実どうにもしてあげられなかったけれど、
以前は威厳と感じていた父の無愛想な態度もあり、
その後の父の事に
真摯に向き合わなかったのも事実でした。

私はよくも悪くも父に似たと思いました。
上っ面はいいが、大事な事に真摯でない。

そんな折の父の病。
確執から時も経っていた為、
私が責めた父の無自覚な部分は、
立場が違えば、自分も起こしうる過ちだ、
ひどい目にあったが贖罪にして罰がやや重い、と思い、
闘病が終わり、少しは元気になったら
当時は立場上言えなかったであろう
恨み言でも聞いてやろうかと思っていました。

しかし、父は
ある夜一人倒れ、そのまま目を覚ましませんでした。

私に悔いはありませんでした。
望まない形であっただろうけど、
多くの憂いからは父を救えたと思っていたので。
しかし、
父は無念だったろうなと思いました。

父は、本当に頑張っていたと思います。
決して悪意はなかったと思います。
ただその方法、方向が間違っている事を
教えてくれる人がいなかった事が、
教えてくれる人を持てなかった事が、
教えてくれているのに聞く耳を持てなかった事が、
不幸だったと思います。

知れば、きっと無念ではなく、
受け入れ、すべき事ができたのではないかと。

しかし、
父の面倒を見てくれいていた姉から伝え聞いたのは、
そんな風にもがき苦しむ中でも、
洒落た振る舞いや細やかな暮らしぶりは、
変わっていなかったようで、
そこは、まぁ、
さすがだなと思いました。

母の死に際は、
喪失感から、本当によく支えてくれていたのだなという、
大きな感謝がありました。

父の死に際は、
男の死に様は生き様の答え合わせ、
自分がどれだけ頑張ったとしても、
大局を見誤れば、全てを失う事もあるという
教訓を得ました。

人は完全ではない。
しかし、
心技体、完全であろうとする事は必要であり、
自分を怠ける事が、誰かの不幸に繋がる事もある。
「自分の事だから放っておいて」は、
一見迷惑をかけないようにしているようで、
多大な迷惑がかかる事がある。

 

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